華雪さんから、篆刻を教わる。
書家の華雪さんのワークショップは、彼女の作品を知った20代の頃から
いつか、いつか、行ってみたい と思っていたこと。
こんなふうに知り合える縁にも恵まれた今、ようやく巡ってきた機会。
今回は、自分の名前を彫るお題。
「好きなのをどうぞ」と置かれたさまざまな石の中で
ひとつひとつつまんでみて、その断面を覗き込みながら選ぶ。
ふと、手になじむ感覚で取ったのは、わりと自然な輪郭の小ぶりのもの。
先人のさまざまな印鑑、そして白川氏の辞典を眺めながら
その字をどう表すか考える。
まずはじめに話してもらった、字の成り立ち、はんこを使っていた人々のこと
想像の風景をぼんやり思いつつ
なぜか今の自分の感覚で引き寄せたくなったのは”菜”の一文字だった。
その字には、草を摘み取る人の様子が含まれている、とあり
それはまさにわたしみたいだな、と思った。
複雑な象形の古代の漢字をまず紙に書いてみる。
ペンで書くと、まだまだかたちばかりが威張ってしまって
自分の手元のものになってくれない。
もともと平面のことが得手でないわたしにとって
それは紙と線に対して考えてばかりいてもしょうがなくて
どうしようかしらと、じっと石を覗き込む。
乱雲のようなもんやりとした模様が石の中にはあり
断面からは切り取られたその肌理が表れていた。
なんとなくそのままその目に誘われるように配置してみることを思いついて
そこからは割に無理なく、描きたい線が決まっていく。
石の奥で、”菜”の由来の景色もいっしょになってくれた感覚だった。
普段やらない表現方法で、そこに自分らしくあるものを作ることはむずかしいのだけれど
(なので、いわゆる”ワークショプ”が少し苦手なんだけれど)
判子の性質の”反転”や、目で追っている石の線と、写し取られた時の印字の面のギャップ、また、やはり”石”を手にして作業する行為が、自分の仕事に近い部分があるのだろう。
無理がない感じがする。
今回の感動は、”うまく彫れた”ことではなく
なんだかじぶんらしきモノが出てきた、というのが
なによりうれしいことだった。
和やかな周りの人気の中に座り
すこしずつ、すこしづつ、石を粉にして掘り進んでいくうちに
なんだか中学生時代の美術の時間の感覚を思い出していた。
*
かつて中学3年次に、美術の時間が週1時間になった時
わたしにとっての日々の時間割はかなり灰色化した。
しかもこれは序の口で
もし普通科の高校に進んだら隔週で1時間、音楽か美術かの選択制になるという。
これを聞いた時は、ほんとうに今後自分はどうしたらいいんだ、と思ったのを覚えている。
そんなわけで、特別に”作家”になること目指したわけでもないけれど
”普通”には進めない、という どうしようもない選択肢で
高校生の時から美術系を選んだのだった。
授業だけでも週8時間、課外授業を含めれば、その倍くらい
何か作ったり描いたりして過ごす日々。
その先の不安は無くはなかったけれど、”隔週に一時間しか楽しみがない”恐怖とは、比較にならなかった。
*
自分の今に至る動機が、からだに戻ってくるようだった。
そもそも、こういう時間を過ごすことで生きていこうとしたこと
ただ、そういうことを大切にしたかったこと。
それを感じながら、石を彫っていた。
そして今はそれにずいぶんといろんな”目的”や”関係”が絡んできたことも思った。
こんど、なにか迷った時には
この時間のことを思い出そうと思う。