2016-01-22

BGM.



デヴィッド・ボウイを聴き続けている、この頃。


10日の訃報を耳にした時は
彼がどんなことをやってきた人だったのか、ほとんど知らず、だったのに。
印象的な瞳のCDジャケットに覚えがあるくらいだろうか。
あと、戦場のメリークリスマス、と。


ニュースは世界をめぐり
イギリスの街では、大勢の人が夜に集まり
彼を悼み、想いを共有しているシーンが流れた。
その光景を見た時に
”ああ、なんだかすごい影響力のある人なのに、わたしはよく知らない!”
という気づきが
なにかを失ったままおいていかれてしまうような気分に膨らんで
にわかに追いかけ始めたのだった。

ー という感じなので、まだまだだね、と笑われそうなのだけれど
今、一生懸命聴いている。 すごくいい。


日本のメディアはこの訃報に際し
大目に見たって褒められない内容のものがいくつかあり
昨今の日本人らしい幼さや浅はかさに思い至る感じで、がっくりした。
この国での想像力や表現に対する愛情理解は、緩やかに希薄になりつつあるのか。
機微や深みまで掬い取れないことがある。
ここ最近時々触れる、物事に対するパサついた感覚は、どこか恐ろしい。




  ”今の世の中って、余りにも沢山の情報が溢れてる。
  本当なら何が適切なものなのか選択して生活の中に取り入れていくべきなのに
  それが不可能になってるよ。
  それを解決するには、僕達がもっとシンプルな生活スタイルに
  戻らなくちゃいけない。”  (83年 - デヴィッド・ボウイ)



かつて、この頃にこんな風なのなら
この時代はもう、なんて言ったらいいのだろう。



* 



わたしは、制作時には音楽が必要なタイプで
傍に人気(ひとけ)があると、なんだか集中できる。励みになる。
そんなことが多い。
いまだに通う、近所の陶芸教室もしかり。
自室でひたすらに篭るのとは異なる魅力がある。
音楽は、そこに実際の人はいないけれど、有り様が耳に届く。
想像できる。


D・ボウイの変遷は、こうして今辿って見てみても
それはそれは目まぐるしい変容で
いわゆるファンは、その時代時代で大いに戸惑っただろう、と思った。
期待されるものを重々知りながら、自分への忠実を選択できること。
大勢の観客の期待に迎合するより
自身の在り方に誠実だった姿にこころ打たれる。




名の有る人も、無名の民衆の様子も
全くの他人も、笑いかける友も。
人の生きる有り様に思い馳せながら、手を動かす。



追悼movieを観に行く。1.23.