2015-04-07

春を編む


もわんと厚ぼったいような、菜の花のにおい。
ぽちぽちと淡い色合いの野花や若葉。
やわらかく膨らんだ土を踏みしめる。

西へ下りると、そこはひと足早く春が訪れていた。


この感じは、久しくゆっくり味わっていなかったなぁ、と
しみじみ空気いっぱい吸い込む。
何かをおろそかにしてしまったような思い。慌しい日々への反省。

そして、かつてこの感じにまみれていた時の記憶が繋がりはじめる。
眺めている感覚は、幼い頃の目線と同じ地点に戻る。
おとなになった今も、変わらない部分。


今回の高知滞在では、竹籠編みを教えてもらう約束をしていたのだった。

ひろたにさん曰く、
”大造さんは、かなり教えるのがうまい”
 とのこと。
その人の性格や感性に合った、素材や編み方を的確に教えてくれるそうな。






竹籠編みはまず、作業場の裏の山手側へ歩いていき竹を採るところから。
”まだ、どういうのにしようか考えとらん〜”
と言いながらも、ゆったり素材のイメージを巡らせながら進む。

 我々が、初心者であることと、普段のモノづくりの感覚からして
大造さんが選んだのは、細身の柔らかな種類の竹だった。
その中でも、生えてまだ間もないほどの、枝葉がまだ出てきていない
すらりと伸びた竹。
本来は、切る時間帯や季節等など、吟味するらしいのだけれど
今回は体験、ということでおおらかに。

 すぱん!
と、慣れた様子で竹を断ち、さばく姿は
本人は何気ないだろうけれど
見慣れぬこちらにとっては、思わず目を見張るものがある。
野山の中、木々に囲まれ生活していた祖先は
こんな日常だったのかなぁ、と ふと思う。


その場で、適当な部分のみを残した材を、それぞれ数本担いで作業場へ向かう。
 その姿は江戸時代とかの”振り売り”のようで
「なにか下げて歩きたいねぇ」なんておしゃべりをする。
水を張り始めた水田の畔を歩く。
一帯には、低く柔らかくくぐもった声のカエルの鳴き声が漂う。
「イモリは見たことあるか?」との問いに水路を覗けば
ぷっくらとしたおなかの、トカゲのようなかたちのイモリが、そこ、ここに。
わたしを包む春の気配が、つくづくうれしい。




板張りの作業場に前掛けをしてはだしになり、座り込む。
ここに至るまでにすでに、気分はのびのび膨らんだ。


八等分に割った竹をさらに肉と皮部分を分けるため、割いてゆく。
今回の細身の竹は、草っぽい柔らかな繊維でもあるので
きっかけが出来れば、指で割いていくことも出来る。

ひやりとした水気がしっとりと指に当たるのがわかる。
”活きの良い物をさばいていく” という感覚は
本能的にこちらを生き生きとさせる作用がある気がする。
収穫のヨロコビ、のような気分もある。

どしりと重みのある”鉈”は、それなりの緊張感を感じる刃物であるけれど
この道具使いに慣れることは、自分が逞しく生きている、と
感じさせる、ワクワクする手応えがある。

子どもの頃から刃物に慣れ親しんだイヌイットの人々や
熱帯雨林の中に分け入って暮らしている民族を想像する。

たったこれだけのことが、大きな想像を呼ぶ。
”地球上で、生きていける”、という自信が湧くような感覚。
 


 やわらかい繊維質に従って、ゆるゆると編まれた、ざる。
ただ”やわらかい”と言っても、竹らしいハリとコシはしっかりと
手を跳ね返す強さがある。

初体験の代物は、もちろん、技術の上手さはカケラも無く
なるがままに沿って編み上げた出来。
ただ、それを見た 大造さんは絶賛と感嘆の声を上げる。
そんな様子に出会い、
この人は、ほんとうに竹が好きなんだなぁ。
 と、つくづく思う。
見つめる先は、何を捉えているんだろう。

褒められるままに、気分を良くし
結局、翌日帰る寸前まで”もういちどやりたい”をワガママを聞いてもらい
結果、竹ひごを束でおみやげに持たせてもらって、帰路についたのだった。


ひごにしてもらった青竹は、まだ清々しい青い匂いを放ち
まるで、新鮮なお魚をもらったような感覚で
”早く、仕立てないと・・・!”と気が焦る。

そんな思いで、また、あの豊かな空気を吸い込みたい気分で
家に付いて夜な夜なひとつ編んでみる。

狭い家の中では、空気はしんと止まり
方々へ散らすひごの先はいろんな物を引っ掛け、暴れる。

空の下でのびやかに編んだ感覚は、なんて感動的だったんだろう、と
東京に帰って、またより一層深く噛み締める。


('15.3.22)